成田国際空港開港と警備の歴史
福岡県の警備会社、株式会社アーカイヴセキュリティがお届けするブログ・第4回は、成田国際空港の開港と警備の歴史についてお伝えします。
日本の玄関口である成田国際空港。多くの警備員がこの空港を出入りする人々の安全を守っています。
昭和53年5月に開港した当時の名称は新東京国際空港。
高度経済成長により増大する国際輸送に対応するために、羽田空港に続いて建築されました。
しかしその開港は多くの困難を乗り越えた先に迎えたものでした。
地元住民の大反対と東峰十字路事件
新国際空港の建設は地元住民への事前説明が全くないままにすすめられました。
そのため住民から猛反対を受け、さらにはさまざまな団体が支援を表明し、反対運動は大きく膨れ上がります。
権力には暴力で対抗しようとする反対運動に対し、それを同じく力ずくで抑えるための機動隊が派遣され、その様子はさながら内戦のような状況でした。
昭和46年9月16日には成田空港建設予定地側の東峰十字路で、機動隊と空港反対派が衝突。
東峰十字路事件と呼ばれるこの衝突では、多くの死傷者が出る事態にまでなってしまったのです。
成田空港管制塔占拠
開港予定日を4日後に控えた昭和53年3月26日、空港敷地内へ反対派ゲリラが進入、管制塔を占するという事件が起こりました。
火炎瓶を投げ入れ空港に突入した反対派に警備が気を取られている間に、別の部隊が京成空港駅(現東成田駅)のマンホールから地下道をぬけ空港内へ侵入。
まるで映画のような話ですが、ほんの四十数年前の日本の出来事です。
当時のサンケイ新聞ではこの事件を「さながら白昼の市街戦」という見出しで報道。紙面には衝撃的な写真が多数掲載されました。
この時に管制機器が破壊されたことにより開港は5月20日に延期となります。
新東京国際空港警備隊の発足
管制塔占拠事件をきっかけに新東京国際空港警備隊(現・千葉県警察成田国際空港警備隊)が発足します。
警備隊という名ですが民間の警備員で構成されたものではなく、千葉県警察本部警備部の選抜メンバーで構成されたものでした。
空港内の監視棟から24時間365日、反対派をサーチライトで照らして警戒するという今の日本では考えられない風景が日常となっていました。
超難産の開港と海外旅行ブーム
新国際空港の建設計画から16年後の昭和53年5月20日、ようやく成田空港は開港します。
当時の福永健司運輸大臣は開港式典で「難産の子ほど健やかに育つ」と挨拶。
その言葉通り国際線を利用する日本人旅客数は増え続け、海外旅行ブームが巻き起こります。
そして今、成田空港では民間の警備員たちが旅行客の安全を守るため日々働いています。
その平和な光景からは壮絶な歴史の姿は見えません。
民間の空港警備の仕事は、空港内を巡回してスリや置き引きを事前に防止したり、危険物がないかをチェック、手荷物検査も行います。
さらに迷子の対応や不審者がいないかの監視、落としもの対応などその仕事は多岐にわたります。
楽しい空の旅の思い出をサポートする警備員の仕事は、大きなやりがいを感じるものでしょう。
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